おれは基本的に度胸なしで根性なし、おまけに誰かを守れる筋肉もなし。
なので電車でいつも乗り合わせる彼女に声なんてかけられるわけもない。
彼女はたぶん高校生で、たぶんおれより年下で、たぶん読書が好きなようで。不確定要素が多めだけれど予想ではいつも付けているピンク色のイヤホンからはクラッシックが流れ、いつも読んでいる水色のブックカバーで覆われた本は美しい純文学なのだと思う。
彼女に惹かれたきっかけは、若い女性に席を譲っていたことだった。周囲がやや怪訝な表情を浮かべる中、お礼を言いながら座る女性の鞄で揺れる妊婦マークと、女性の安心したような表情を見つめる彼女の赤らんだ頬を見た瞬間に、どうしようもなく胸が締め付けられた。
それからずっと、毎日学校帰りの15分、電車の中で彼女を目で追いかけている。
たとえば彼女がどんな音楽を好きでどんな私服でどんな趣味を持っていて、手を握ったらつめたく感じるのかあたたかく感じるのかとか、ただ想像しているだけで充分楽しくてそれ以上を望むことはなかった。あの日曜日までは。
その日、おれは好きなバンドのライブチケットが外れていたので買い物に行こうと電車へ乗り、いちばんお気に入りの曲を聴いていたのだけど、二駅過ぎて乗車してきた人影に、大好きなギターソロは遠のいた。
彼女だ!彼女がおれの好きなバンドのTシャツを着て、バッグを持って、キャップをかぶって、この電車に乗っている!
まさか、いつもピンクのイヤホンから流れていたのは。早鐘のように鳴り響く心臓の音でお気に入りの曲はあっという間に掻き消され、あまりの衝撃に動揺したおれは結局買い物へは行かず、帰ってきてしまった。
翌日の月曜日、おれはある一つの決意を胸に電車へと乗り込んだ。彼女に話しかけよう。
胸を高鳴らせ待つこと5分、彼女はいつもの通り乗車してきた。いつもはいない姿を連れて。
彼女の隣に立つ男性は短い髪と浅黒い肌、爽やかな笑顔のいかにもスポーツをしているような、彼女を楽に守れるようなひとだ。おれとはまるで正反対のその人の鞄に、おれが付けているのと同じバンドの限定キーホルダーが揺れている。あの人もこのバンドが好きなのかな、それで彼女と意気投合したのかな、ライブには一緒に行って、手を繋いだり、終わったあとは楽しさを共有するのだろうか。
その日から数日、まるで抜け殻のように過ごした。今日も彼女は彼と電車に乗っている。
たとえばおれが、あの日曜日に彼女に声をかけていたら、いや、もっと早くに話せていれば彼女の隣にはおれがいたのだろうか。彼女と彼の姿を横目で見ながら考えるのは途方も無いたらればばかりだ。たとえばそもそも、彼女のことを。ああもうやめよう。終わりだ。そりゃそうだ、おれは度胸なしで根性なし、おまけに誰かを守れる筋肉もなし。物語のようには。
感傷とともに電車が降車駅に停まり、おれは出口へと向かう。その時不意に何かに鞄が引っかかり、バンドのキーホルダーがかわいた音を立てて電車内に取り残された。取りに戻ろうとも思ったけれど、傷心のおれはそれを見て、時は至れりと考えた。彼女と彼とを乗せた電車に取り残されたキーホルダーよ、おれの淡い恋心とともに何処か遠くへ!
一歩一歩足早に電車から離れ、少しちいさく、扉が閉まります、とアナウンスが聞こえた。その直後に扉が再度開く音に『駆け込み乗車はおやめください』と駅員の強い声色。誰だよ迷惑だなあ、なんて悠長に構えるおれの背に、小気味好い足音が近づいた刹那、ぐいと鞄を引かれた。何事かと振り向けばそこには。
「あのっ、これっ、落とされましたよ!」
肩で息をしながら手離したはずのキーホルダーを差し出すのは、他でもなく彼女だった。
時が止まったかと思ったが、電車が出発する轟音がそれを打ち破った。
一瞬で遠のく電車を見て、彼女が慌てたように呟いた。
「あっ、お兄ちゃん置いてきちゃった」
「お兄ちゃん……?」
「えへ、一緒に帰ってた人なんですけど電車においてきちゃいました」
お兄ちゃん?あのいかにもスポーツ万能そうで爽やかで、この子を守るに事足りる体格の彼は、この子の、お兄ちゃん?
彼女のあの日のように赤らんだ頬を見て、おれは、あの日以上に胸が締め付けられた。それはそれはもう、息もできないほどに。
黙ったままのおれを見上げる彼女は戸惑いに満ちた表情で、依然手にしたままのキーホルダーとおれとを見比べながら言葉を探していた。
「あ、えと、このキーホルダー、私の好きなバンドのやつで」
うん、知ってる。おれもそのバンド好きだから。
「ファンクラブの限定品だから、落としたままじゃだめだ!て思って」
そう、しかもそれ個数限定だから買うのにとっても苦労したんだ。
「気が付いたら電車飛び降りちゃってました……」
「ありがとう」
震える声でそう告げ、彼女への想いと同時に手離したはずのそのキーホルダーを、他ならぬ彼女の手から受け取った。
おれは基本的に度胸なしで根性なし、おまけに誰かを守れる筋肉もなし。だけど。
だけど、いまは、いまだけは。
「ね、ねえ。おれ、この間の日曜日たまたま見たんだけどさ、このバンドのライブ、行ってたよね」
「え!はい、チケットようやく当たって……」
「おれもね、このバンドめっちゃ好きなんだ。周りに話せる人少なくてさ、だから、だからあの」
友達になってくれないかな。
我ながら消えそうだとしか言えない最後の一言に、彼女が笑顔を浮かべ、ああ。
ああ、神様!
written by 一軸
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